日本拳法について
日本拳法始祖 澤山宗海先生
澤山 宗海―「日本拳法」の創始者―
一撃のもとに相手を倒そうとする裂帛の気合。グローブをはめた拳が一瞬のうちに繰り出され、足技も加わる。これら「動」の攻めに対し、冷静に見極めてかわそうとする「静」の構え。面、胴など厳(いかめ)しい防具を着装して闘う独特の格闘技「日本拳法」。実に迫力十分の試合を展開する。形(型)にとらわれない実践向きの武道を、安全面に工夫を凝らして世に出し、広めたのは美方郎村岡町(兵庫県美方郡香美町村岡区)出身の澤山宗海(本名・勝)である。
「形(型)に捕らわれない独特の格闘技」
『おりゃー』。金具のついた面具の中で、ランランと光る眼。勢いのいい掛け声を発し相手のスキをうかがう。一方、「われにスキなし。どこからでもこい」と身構える対戦の相手。ひと呼吸置いた後、拳にはめているグローブがうなるように突き出され、互いに激しい攻防戦になると、見る者の目を釘付けにする。ボクシングのストレートを見舞うような直突(素突)や、スイングフックに似た横打などの拳技が次々に襲う。拳技だけではない。油断していると足を使った蹴技が飛んでくる。あるいは投げ技とか、関節技などの組技に持ち込まれる場面も。このようにありとあらゆる攻めの技術に対して、体を素早くかわす法、受手で防ぐ防御技がある。かわし技は反身(そりみ)、退身(ひきみ)、側身(よこみ)、開身(ひらきみ) 沈身(しずみ)、潜身(くぐりみ)といった、日本拳法ならではの六つの形(用語)があり、受手は横受(よこうけ)、上受(うわうけ)、下受(したうけ)、掬受(すくいうけ)の四つ。この体のかわしと、受手の技がさまざまに応用されて、固い防技になる。 "拳で撃ち、足蹴で攻める。かわし身や受手の防技から一転、攻めの技に。空手道、中国拳法、ボクシングなど拳の武術に、日本古来の相撲、柔道やレスリングなど、あらゆる格闘技 が凝縮している日本拳法。その攻防は今様のK-1とも見えるが、異なるのは先述の面、胴、内胴、股当による防具を用いていることだ。身を守る完全なまでの道具。安全第一。格闘技とはいえ、競技中に骨折や血を流すこともない。これこそが日本拳法の特徴だ。激しく撃ち合っても被撃傷害を起こさない。安心して拳法に熱中できることが、スポーツとして広がりを見せた理由だろう。それも老若男女のだれもが楽しめる。試合だけではない。健康(体力)づくりの手段にもなるため、町道場ではにぎわいを見せている。特にちぴっ子が掛け声勇ましく稽古に懸命な姿はほほえましい。 日本拳法にも形(型)の稽古はある。だが、形だけに頼ると豪壮華麗の演武に陥りやすい。 「それでは真の拳の格技とはいえない。拳・足を思い切り使い、撃ち合ってこそ武道の神髄を究めることができる」。この信念を貫き、日本拳法の発想を練ったのが澤山宗海だ。1932(昭和7)年秋のことだった。
「広く深い」大海のような人物」
澤山は1906(明治38)年12月12日生れ。ふる里は但馬の村岡町だ。中国連山の山懐 に抱かれ、渓流が走る"山と川"の豊かな自然の里。兵庫県下では最高峰(1,510m)氷ノ山や、東隣りにそばだつ鉢伏山(1,221m)は、夏はトレッキングコース、冬はスキーのメッカとして人気が高い。ラドン温泉もあっ.て、町全体が癒しの里だ。岡山県大原の里は剣豪・宮本武蔵を生んだが、兵庫・但馬の邦は拳法宗家の澤山宗海を出した。 育ったのは商都・大阪。長年、住んだ。早くから武道に勤しんだ。柔道、空手道、中国拳法、剣道のほか、中国大陸で勤めた兵役(1940~46昭和15〜21年)後には銃剣道にまで。あらゆ る武道といわれるものと取り組み、高段位を取得したものもある。澤山の愛弟子で日本拳法会会長・小西丕によると「柔道と空手道は五段の実力」。にもかかわらず、日本拳法を編み出すまでに至ったのは、先に触れたように「形(型)だけ一辺倒では、真の武芸者を決めようがない」にこだわったからだ。とにかく筋骨たくましい堂々たる体格。物静かだが、悠然と構える様は、宗家となるにふさわしい風格だった。人物も大きく、小西は「つかみどころがないほどの大人でした。山は高く海は深いと言いますが、海には広さがある。宗家の「宗海」は、ぴったりの号と思います」と慕う。半面、几頓面さと緻密さは人後に落ちなかった。 また、武芸の達人ともなると「信じるは己だけ」のタイプが目につくが、澤山の信心も第三 者から見ると、風変わりではあった。現在、(当時)83歳で健在の千代子夫人の話ではこうだ。「「神」はいる。ただし、うちにいるのは〈七つの禍の神〉だ」として、毎朝、墨痕鮮やかに、その日に礼拝する神の名を半紙にしたためて、障子などに張る。神の名は「死神」あり「貧乏神」あり。いわゆる七福神ならぬ七邪神だ。生前の澤山は吐露していた。(自分は)裕福ではない。だから貧乏神を立てれば、これ以上の貧乏にはならないはず」と。ほかの六邪神についても、それぞれ主張があった。
「動物、植物の動きをヒントに技を考案」
絶対安全な防具を着けて、自由に撃ち合う。澤山は孫子の兵勢編の一節をヒントに、この稽 古法を"乱稽古"と名付けた。従来の形(型)だけを脱し、乱稽古を練技の主流として、技を 磨く。その延長が試合だ。それまでの常識を覆す「開拓の拳技」。澤山の武道、特に拳の格技の探求に懸けたフロンティア・スピリットが実を結んだと言っていい。 実際に試行錯誤の末、拳技、足技、投技、寝技にも安全な防具が完成したのは、発足2年後の1934(昭和9)年だが、既に日本拳法へと動き始めたのは、その4年前にさかのぼる。 当時澤山は関大の学生だった。日本拳法創始への意志を固めた澤山は攻め、受けのさまざま な技を編み出す工夫を凝らした。 強初な体づくりも欠かせない。澤山の大阪・吹田市内の自宅は、道場そのものといってよかった。庭に置いて筋力強化に用いたパーベル?といえば、シャフトの両側にコンクリート製の大きな丸い玉が⋯。「物を食べる時は、よくかめ」と、歯は大切にした。このあたりは、澤山が日本拳法を話生させた年と同じ1932年、ロサンゼルス五輪三段跳びの金メダリスドとなった故・南部忠平が「エネルギー源となる食べ物は咀唱すること」と、五輪の1年前から徹底して歯の検診をしたのと似通っている。 技の考案は「動物の動き、植物の伸縮を大いにヒントに」(千代子夫人)。動物は鳥類の羽ばたき、犬、猿などの屈伸や四肢の関節の動きをつぶさに観察。なかにはエビ、魚類、爬虫類なども。これらの"「動き」は大きく要約して①屈と伸(反)②曲③捻‐に分析され、あらゆる技の基礎になっているとして「素元運動」と称し日本拳法の造語とした。 書のほか、絵筆を走らすとなかながの達人。 戦後は母校はじめ、大学教授の傍ら日本拳法のさらなる研究に。71歳で他界。 「智勝院禅林啓武宗海大居士」は武道宗家の戒名にふさわしい。 ふる里・村岡町に静かに眠る澤山は終生「武は礼に始まり、礼に終わる」を説いた。
參考文献「日本拳法」改訂版 澤山宗海 毎日新聞社
筆者 力武敏昌(りきたけとしまさ)
1933年大阪市生まれ。幼少期を中国東北部(旧満州)で過ごす。関西大学卒 神戸新聞社入社後、運動部で陸上競技、テニス、アメリカンフットボールなどを担当。1964年東京 1972年ミュンヘン五輪を取材。退社後フリー。